※これはろむ一個人の考えであり、篝之鼠としての思想ではありません。
最近、Xを見ていると自動翻訳によって世界的な交流がなされている印象を受ける。
「パイオニア」たちが各国の人々と交流している様を色々な衝突が生まれているようだ。
元々島国かつ鎖国の歴史を持つわたしたちにとって、「外国の人」という存在はある種神聖化されたものでもあった(すくなくとも、2000年代初頭には、「アメリカではこうしてる」といった嘘か真かの言説や、海外旅行、国際結婚...そうした「海外ブーム」といった海外指向、あるいは海外信仰的な流行があった)が、こうして言葉の壁が取り払われると、イデア的な海外...あるいは海というブラックボックスを超えた生の「海外の人」の姿が露わとなる。
そもそも、これまでわたしたちが交流してきた「海外の人」というのは、小さな島国に住む私たちの国に旅行に行ったり、別に使える幅の広くもないような言葉をわざわざ覚えて交流をしてきたりする時点で、私たちの国に関心や敬意を持ち、くわえて経済的ゆとりのあるような人たちのほうが圧倒的に来るものだから、心象の良い人たちとばかり交流してきた背景があるのだ。なのだから、別に日本に興味を持っているわけでもない圧倒的多数の人達が浮き彫りになったように思え、ギャップが生まれるのは無理もない話といえる。
こうしたギャップに対して、「国が違うから」とか、「信仰している宗教が違うから」とか、幻滅している姿を見ることも少なくない。なんというか、ゼノフォビア的な風潮になりつつあるが、たぶんそうした違いが大きな原因なのではない。実際これまでも日本国内でも地域がどうとか、県がどうとか、今となってはミクロな次元でそうした言い合いはあったもので、最初にわかりやすい違いとして挙げられたにすぎず、むしろ実態は「どこの国でも一定数いるわかりやすく攻撃的な人間」が浮き彫りになっただけで、大多数は、そうした人間たちに遮りを入れたり、たじろいだり、しているようで「大した違いがない」、あるいは「いずれ気にされない違い」の程度ように思える。なのだから、このような違いというものは、「話してみたら確かに少し考えが思ったより違った」くらいのギャップの程度であり、本質的に違いがないため、印象の違いの規模間でいえば「暮らしの豊かさが違う」くらいの問題に過ぎない(あくまで、問題とされている程度がどのようなスケールであるかの卑近な例示であり、今起きている問題の根源が国際的な生活水準のレベルが違うから、という話題ではない)。このような問題は持続的に交流がなされるにつれて思考のギャップは均質的・平準化していくものであるから、いずれ気にも留められなくなるだろう。
わかりやすく国境が取り払われることによって、広い世界と交流ができるようになった一方で、何ら違いのない大多数が登場したことで「世界は縮小した」印象を受けた。